昭和40年07月03日 朝の御理解
お互い、縁あって、椛目に御神縁を頂いて、お互い、真実幸せを願わせてもらい、そこに焦点をおいての日々の信心の稽古。これはもう、みんなが同じことだろうと。ね、椛目に御神縁を頂いた。その、縁というのも様々な、それはそれぞれに違うのでございますけれども、ね、ここに一心に信心の稽古をさせて頂いて、銘々が真実幸せににならせて頂きたい、おかげを蒙りたいという願いは同じだと。
そこで椛目に御神縁をいただいたという事、椛目にご神縁を受けておるという事をです、どんな場合でも中心にしなきゃいけん。こりゃみんな、ここも同じでなからにゃならん、そこんところがバラバラであっては、おかげにならん。その思いが全く同じであって、そしてそういう思いの人達が勢を揃えて信心させてもらう時、椛目の全体的助かり、いわゆる、最近だんたいの助かりということを言われるが、そのだんたいの助かりということになってくる。
人はどうでもええ、私だけ助かりゃええと、と言った様なものではない。同じまた椛目が、なんならあんた、金光様のとこんでんござるけんで、と言う様な事では、それは例えば十年二十年椛目に御神縁をいただいて信心の稽古をしとったからというて、それはたいしたことはない。ね、椛目に御神縁を頂いたという所に先ずのお互いがです、本当に不思議な事ではあると、同じ赤の他人同士が、椛目に御神縁を頂いたおかげで。
いわば道の同士というより、椛目の会員同士としてです、信心の稽古をさせて頂けるということが有り難い。昨日、午後からでした、ある方が田植えが済んだからというお礼お届けにお参りしてみえられた。もう先生、もう今年ばっかりはもう本当に、もう困りましたと、村内が、いつも、共同田植えがあるのに、今年は2、3の人が、いわゆる自分勝手なことを言うために、とうとう、いつも共同田植えをする、しておった。
その当にしておったんですけれども、それが急に取りやめになって、銘々が銘々で植える事になり、自分で田植えの人夫さん達も雇わなければならんということになった。もうそれはもう、たい、もう、ひさ、その、大変なこと、お年寄りなんですが、もうご飯炊きからなにから、もうせにゃなりませんし、この最近ではもう、給料が良うなからなければ、その、人夫さんも来ては下さらん。
給料も良うなからにゃならん、第一あなた、もう毎日毎日その、まかないが同じことじゃいかん。もうあそこは、おごっそうのなかけんで、あそこには行くめえなちゅうごたる風で、そのみんなが言い合うてから、もうまかないが悪かとこにゃあいかん。して、あそこはもう早うよそから、呼びにこらっしゃるけんでちゅってから、とにかく朝の時間でも、うちの者が一下ろししてから迎えに行く。馬渡の方ですが、本郷まで朝晩送り迎えをせにゃきゃならん。
私それを聞かせていただいてから、本当にこの、そういう結果になってくる、本当にもうバカらしい話だ、それであなたもうお金はよそにもらいにばばっかりおてちからから、もううちはそげな風でもうどこでん、そして困ってなさいますって、ちゅうような話を聞かせて頂きながらですね、思い合うということ、思いがひとつになるという事、しかも焦点がここにおいてあるという、焦点がはっきり、しかも講義名文がたっておるということ。おかげを頂かなければいけないなと私は思う。ね。
村内が全部思い合うて、共同でする時には、もうできるだけ始末倹約も出来る。うち、内々同士ですから。もちろん、田が多いところもありゃ、少ないところもあるから、それはちゃんとこう割り当てて、払うところもありゃあ、貰うところもあるといったような風にお金が落ちるでも村内に落ちる。しかも自分のことであるから、さあ朝も出来るだけ早う、都合では夕方もできるだけ一おろしよけい頑張らせて頂いても、
やっぱり自分の物。もう大変な差し引き違いになるというわけなんです。月次祭のあとでした、秋永先生が言っておりました。奥さんのお父さんがその日に丁度、一日に亡くなられたんです。病院に何日間か入院しておられましたから、病院のいろんな経費やら入院代を払わせて頂く為に、杉山さんのご兄弟が12人ある珍しいですねぇ。もうそういう、そげなんとこに、仏さんには出した事がない、死んだ事がないという。
あら新たにそのお寺さんもどこ、どこにしたら良かろうと言った様なことがあったという話しですが、、病院に10人の兄弟が集まって、で、秋永先生が一万円ずつ出そうじゃないかって、一万円ずつ出した。支払うたところが4万なんぼであったから、約6万近くのお釣りがきた。それで秋永先生が、こりゃもうお母さんの小遣いにしとこうちゅって、はあ、それがよかろうちゅってからみんな決まったと。
お母さんも喜ばれる。ね、それは親方んとこの金はやれんって言うたらみんなが承知せんのです。ね、というてそれはまたケチにです、ならまた一頑張りしてもらおうといったようなことでもなく、それがしかも(中心?)を喜ばせるために、残った金をお母さんの小遣いにしとこうって、それが良かろうと言うてみんなが賛成したと、もう本当にもう、兄弟にがたがた言うとがおらんからほんに結構でございますとこう言う。
その話この話、一つ私は味わなければいけないと思う。椛目的助かり、そういう点で椛目、だいたいおかげを頂いておる。本当に中心で私は無信心で、皆さんも御承知の通り私はつまらん男でございますけれども、結局親先生の鶴の一声という事で、いつの事でも事が定められたり、進行したりしていくということが有り難い。総代幹部をはじめ、ね、例えば御造営なら御造営という事にあたってです。
総代さん方が話し合われて、その御造営成就祈願の為に、毎朝朝の御祈念に全員という訳にはいかんけれどもほとんどの方が集まって、しかも思いを一つにして会員全体のことを願われると同時に、御造営成就祈願のお願いがある。そのお話を聞いてきましたけれども、そういう例はあんまりみないですねぇ。てんでんばらばらでその事願われるという事は、みんなが願うもんもまた願わんもんもあるという事ですけれども。
総代11名の者がみんなその気持ちにならせて頂いてそのことに、ひと、願いを一つにしてです、信心を進めていっておるといったような例は、私は少ないと、その点おかげを頂いておるなとこう思うのです。ですから、本当にそのことがそのこととしてです、おかげを頂いてまいりまして例えば御造営成就祈願ということ、そのことが成就するということを願いとして、問題は成就さえさせて頂けばいいのだと、そこに願いを置いたら問題は一切が解決なのだと。
楽器ではないですけれども、ね、例えば三味線なら三味線という、楽器には3本の糸が張られてある。一の糸、二の糸、三の糸、同じではない、大中小である。(いうもの?)また別である。ね、椛目の中には総代もおりゃあ、ね。壮年部には壮年部長も、青年会は青年会長も、婦人会には婦人会長も、いうならピンからキリまでである。それぞれの持場、または立場、それが銘々である、力量も違う。
百斤しか持てない者が、もうつういっぱい、百斤で骨折っとんなら百五十斤持てるような者がです。それを担うてやろうというような、ものがなからなければおかげにゃならん。はあ、あんたどんが一生懸命やっとる、高見の見物、これではよい音色が出るはずはない。一の糸は一の糸、二の糸は二の糸、三の糸は三の糸で銘々勝手にただ音色を出しておるというだけではやかましかばっかり。
その三本の糸がです、きちっと調子がそろうてこそ良い音色が出るのである。糸の太さは違うのだ、けれども調子そのものが、合うておりおって初めて、成程一の糸があってよし、二の糸があってよし、三の糸があるという事が有り難い。そこにその調子というものを何処に置くか、焦点というものを何処に置くか。銘々の立場銘々の顔、私の顔がつぶれたとか私の顔が立たんとか、誰がどう言うたのこう言うたの、沢山の人間が集まってすることであるから、どこに手落ちがあるやら、ね、どこに間違いがあるやら分からんところをです、手落ちのあるところはカバーしていき、足りない所を補うていき、ね、出し合うていけなければいけん。または改まり合うていかなければいけん。問題は事成就のことのために、と言う様にです、日頃の信心に物言わせるそう言う様な特別な有り難い時期をお互いが頂いておるのであるから、もう本当に椛目的助かりという事、団体の助かりという事、という意味合いにおいてですたい、いかに共同一致、いわゆる共同田植えが銘々の祈りであるかと言う様な事をです、体験させてもらい分からせてもらわなければならない時ではなかろうかと、椛目にとって。
(音声は終わるが、話は続く感じ)